先日の西之島の記事にかなりのアクセス数がありましたので、島シリーズとして、今回は「ラサ島(沖大東島)」を取り上げます。
沖大東島は、沖縄県島尻郡北大東村にある島で那覇市の南東約400kmのところに位置し、現在は無人島となっておりますが、最盛期は人口2000人を誇りました。
元々、所属地未定であった同島は明治33年、日本の領土として編入されました。
明治40年、肥料の原料である燐を調査していた、農学博士の恒藤規隆氏により島内の調査が行われ、糞化石質燐鉱石(グアノ)が発見されたことにより、肥料の原料となる燐鉱石の採掘が開始されました。
明治44年にラサ島燐礦合資会社を設立、大正2年にラサ島燐礦株式会社(後のラサ工業)に改組され、燐鉱石から肥料や火薬の原料となる過燐酸石灰が製造されました。
昭和12年には、ラサ工業の私有地となりましが、昭和20年 資源枯渇・米軍攻撃の激化を理由として、民間人は奄美諸島等へ引き揚げることとなりました。
昭和20年までに産出した燐鉱石は 160万トンにのぼり、採掘された燐鉱石は、東京や大阪、岩手県の宮古の工場まで、貨物船で運搬されました。
昭和55年に燐鉱床の探鉱が行われて、燐鉱石が約300万トン残存していることが確認されましたが、現在採掘は行われておりません。
私は大正14年発行の日本地図を持っているのですが、この地図では南・北大東島や八重山群島よりも大きな扱いをされていることに、いかに当時、重要な島であったか思い知らされました。
沖大東島は、沖縄県島尻郡北大東村にある島で那覇市の南東約400kmのところに位置し、現在は無人島となっておりますが、最盛期は人口2000人を誇りました。
現在は全島、ラサ工業の所有地となっておりますが、沖縄本土復帰前の昭和33年から在日米海軍の演習場「沖大東島射爆撃場」として利用されている為、民間人の立ち入りができません。
元々、所属地未定であった同島は明治33年、日本の領土として編入されました。
明治40年、肥料の原料である燐を調査していた、農学博士の恒藤規隆氏により島内の調査が行われ、糞化石質燐鉱石(グアノ)が発見されたことにより、肥料の原料となる燐鉱石の採掘が開始されました。
明治44年にラサ島燐礦合資会社を設立、大正2年にラサ島燐礦株式会社(後のラサ工業)に改組され、燐鉱石から肥料や火薬の原料となる過燐酸石灰が製造されました。
昭和12年には、ラサ工業の私有地となりましが、昭和20年 資源枯渇・米軍攻撃の激化を理由として、民間人は奄美諸島等へ引き揚げることとなりました。
昭和20年までに産出した燐鉱石は 160万トンにのぼり、採掘された燐鉱石は、東京や大阪、岩手県の宮古の工場まで、貨物船で運搬されました。
昭和55年に燐鉱床の探鉱が行われて、燐鉱石が約300万トン残存していることが確認されましたが、現在採掘は行われておりません。
私は大正14年発行の日本地図を持っているのですが、この地図では南・北大東島や八重山群島よりも大きな扱いをされていることに、いかに当時、重要な島であったか思い知らされました。
初出 平成27年 6月10日