先日、小諸市へ行ってきました。小諸は古い建物も適度に残り、散策するにはよいところです。
小諸の街は、城下町でありながら、お城(現在の懐古園)が城下町から見下ろすことができるところにあるといった、通常のお城と城下町の関係性からは考えられない配置となっております。
小諸城は、西側には千曲川が形成した断崖となっており、ちょうど天然の堀として機能しています。
また小諸の街の鉄道や国道(昔でいえば北国街道)といった導線は、古くから北西-南東の方向となっております。
これは小諸の街が、千曲川によって形成された河岸段丘上にあるためで、千曲川下流の上田市に至るまでこのような地形が続いております。
昭和の終わりに北陸新幹線のルートを決定する際に高崎・軽井沢間をフル規格で整備し、軽井沢・長野間を平成10年に行われるオリンピックで、長野市が選ばれた場合、フル規格で建設、選ばれなかった場合は信越本線を現在の山形新幹線のようなミニ新幹線とするということに決まりました。
その後はご存知の通り、長野オリンピック・パラリンピックが平成10年に日本選手の活躍もあって大会は大いに盛り上がることとなりました。
さて話を戻しまして、オリンピックの決定により、北陸新幹線の計画がフル規格で建設へとなったわけですが、小諸市はフル規格であろうとなかろうと、小諸駅は信越本線と小海線、古くは布引電気鉄道の始発駅という交通の要衝であることから、新幹線駅を引っ張ってきたいのですが、新幹線駅建設のための土地が小諸のシンボルである「懐古園」にかかってしまうことがわかったため、フル規格反対運動へとつながることとなりました。
ただ小諸駅自体は、明治時代に旧小諸城の城地を横断する形で建設されているわけではありますが。
ちなみに小諸市の隣の御代田町も御代田駅がミニ新幹線駅に対応できる可能性があったため、ミニ新幹線を支持していた人が多かったことを記憶しております。
また開業をオリンピックの前に間に合わせるため、当時耕作地しかなく、買収が容易であった現在のルートの佐久平駅経由で落ち着きました。
これは新幹線駅周辺の都市計画をおこないやすいことも、このルートとする判断材料の一つとされたようです。
新幹線駅の建設中、一般的には佐久駅(仮称)と表示されていました。
しかし小諸市サイドとしては、この駅の名称を巡って「小諸佐久駅」、「佐久小諸駅」にすべきと主張し、佐久市サイドも「佐久駅」を譲らなかったため、県知事に調停を依頼し、両市とも佐久平にある都市ということから、開業11か月前に「佐久平駅」に決定した経緯があります。
佐久平駅周辺の勢いに対し、小諸駅周辺は新幹線開通後は衰退してしまいました。小諸市と各都市との間の到達時間は、北陸新幹線の開業により相当な時間短縮となりました。
しかし、特急列車で乗り換えなしで移動できるというメリットがなくなってしまったことは、結果として小諸にとっては大損害を発生する事態となってしまいました。
小諸の街は、城下町でありながら、お城(現在の懐古園)が城下町から見下ろすことができるところにあるといった、通常のお城と城下町の関係性からは考えられない配置となっております。
小諸城は、西側には千曲川が形成した断崖となっており、ちょうど天然の堀として機能しています。
また小諸の街の鉄道や国道(昔でいえば北国街道)といった導線は、古くから北西-南東の方向となっております。
これは小諸の街が、千曲川によって形成された河岸段丘上にあるためで、千曲川下流の上田市に至るまでこのような地形が続いております。
昭和の終わりに北陸新幹線のルートを決定する際に高崎・軽井沢間をフル規格で整備し、軽井沢・長野間を平成10年に行われるオリンピックで、長野市が選ばれた場合、フル規格で建設、選ばれなかった場合は信越本線を現在の山形新幹線のようなミニ新幹線とするということに決まりました。
その後はご存知の通り、長野オリンピック・パラリンピックが平成10年に日本選手の活躍もあって大会は大いに盛り上がることとなりました。
さて話を戻しまして、オリンピックの決定により、北陸新幹線の計画がフル規格で建設へとなったわけですが、小諸市はフル規格であろうとなかろうと、小諸駅は信越本線と小海線、古くは布引電気鉄道の始発駅という交通の要衝であることから、新幹線駅を引っ張ってきたいのですが、新幹線駅建設のための土地が小諸のシンボルである「懐古園」にかかってしまうことがわかったため、フル規格反対運動へとつながることとなりました。
ただ小諸駅自体は、明治時代に旧小諸城の城地を横断する形で建設されているわけではありますが。
ちなみに小諸市の隣の御代田町も御代田駅がミニ新幹線駅に対応できる可能性があったため、ミニ新幹線を支持していた人が多かったことを記憶しております。
また開業をオリンピックの前に間に合わせるため、当時耕作地しかなく、買収が容易であった現在のルートの佐久平駅経由で落ち着きました。
これは新幹線駅周辺の都市計画をおこないやすいことも、このルートとする判断材料の一つとされたようです。
新幹線駅の建設中、一般的には佐久駅(仮称)と表示されていました。
しかし小諸市サイドとしては、この駅の名称を巡って「小諸佐久駅」、「佐久小諸駅」にすべきと主張し、佐久市サイドも「佐久駅」を譲らなかったため、県知事に調停を依頼し、両市とも佐久平にある都市ということから、開業11か月前に「佐久平駅」に決定した経緯があります。
その後、佐久平駅は開業時に比べ、現在の利用者数はほぼ倍増、駅周辺は変貌を遂げ、大規模小売店舗やマンションが立ち並ぶ街へと成長し、学校も新設されました。
その勢いは、隣接する岩村田地区を吸収する勢いとなり、新幹線新駅(最初、小海線の佐久平駅は予定されておらず、請願駅として設置)としては成功したと言えるでしょう。
その勢いは、隣接する岩村田地区を吸収する勢いとなり、新幹線新駅(最初、小海線の佐久平駅は予定されておらず、請願駅として設置)としては成功したと言えるでしょう。
佐久平駅周辺の勢いに対し、小諸駅周辺は新幹線開通後は衰退してしまいました。小諸市と各都市との間の到達時間は、北陸新幹線の開業により相当な時間短縮となりました。
しかし、特急列車で乗り換えなしで移動できるというメリットがなくなってしまったことは、結果として小諸にとっては大損害を発生する事態となってしまいました。
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