昭和56年3月に長野電鉄長野線の長野・善光寺下間が地下化され、地上線の走っていたところは、現在、長野大通りとなっております。
私は地下化して1か月以内に長野・桐原間を祖父と乗車しました。下車した後、桐原駅の北にある皇足穂吉田大御神宮に参拝した思い出があります。(長野電鉄長野駅で発行された記念乗車券を持っています。)
当時、地下化された区間を乗車してみた感想は、地下区間が意外に短かったという感想でした。
国鉄長野駅から権堂周辺、三輪方面にかけての渋滞緩和のための地下化ですので、現在運行されているように本郷駅の手前まで地下化すれば十分なのですが、当時は私も小学校入学前であったので、そのようなところまでは考えが及びませんでした。
地下化となっても二年程度は、市役所前駅の交差点の手前(東側)は、踏切跡が段差でわかりました。
昭和40年代末期から長野・善光寺下間の連続立体交差事業は、地下化以外にも高架化する計画もあり、高架化は地域の分断化につながり、将来の長野市中心部の発展には地下化がふさわしいということで地下化に決定した経緯があります。
ただ地下化から30年余りたちますが、その当時より定期での乗客は大幅に減少しております。
地方の公共交通に共通したことですが、自治体や事業会社を含め、乗客をもっと増加させる策を講じなければいけませんね。
私は地下化して1か月以内に長野・桐原間を祖父と乗車しました。下車した後、桐原駅の北にある皇足穂吉田大御神宮に参拝した思い出があります。(長野電鉄長野駅で発行された記念乗車券を持っています。)
当時、地下化された区間を乗車してみた感想は、地下区間が意外に短かったという感想でした。
国鉄長野駅から権堂周辺、三輪方面にかけての渋滞緩和のための地下化ですので、現在運行されているように本郷駅の手前まで地下化すれば十分なのですが、当時は私も小学校入学前であったので、そのようなところまでは考えが及びませんでした。
地下化となっても二年程度は、市役所前駅の交差点の手前(東側)は、踏切跡が段差でわかりました。
昭和40年代末期から長野・善光寺下間の連続立体交差事業は、地下化以外にも高架化する計画もあり、高架化は地域の分断化につながり、将来の長野市中心部の発展には地下化がふさわしいということで地下化に決定した経緯があります。
ただ地下化から30年余りたちますが、その当時より定期での乗客は大幅に減少しております。
地方の公共交通に共通したことですが、自治体や事業会社を含め、乗客をもっと増加させる策を講じなければいけませんね。